因みになーまんは相模のネコ (=^ェ^=)
愛犬家の方にはご不快なタイトルで恐縮です。
昔の話なのでご容赦下さいm(_ _)m
画面左が鶴岡八幡宮、奥の道の先には頼朝や実朝が暮した大蔵御所や、重臣達の屋敷がありました。
大蔵御所跡は現在小学校、北条義時の屋敷跡は後醍醐天皇が建てた宝戒寺になっています。
地図にするとこんな感じ ( ̄▽ ̄)
鎌倉文華館鶴岡ミュージアムに、3月1日から「鎌倉殿の13人 大河ドラマ館」がオープンしました!
大蔵御所のジオラマは撮影不可の為、寝殿造の代わりに平家池越しのミュージアム外観 (^_^;)
毎年正月元旦には御家人達が御所に参集 (^_^)v
実朝が将軍の頃最上席は北条義時、隣は三浦義村でしたが、家督を継いだばかりの少年、千葉胤綱(ちばたねつな)が二人の間に割り込み、どっかり座ってしまいました!
下総の犬は寝場所も知らねーよーだなぁ〜
50のオヤジ義村が立腹して罵ると胤綱は・・・
三浦の犬は友を喰らうらしいなぁ〜
胤綱の見事な返しに、司会の実朝さんから座布団3枚!
1213年政所別当北条義時と侍所別当和田義盛が争い、三浦義村の土壇場の裏切りで和田一族は滅亡!
胤綱はそれを揶揄したわけです ^_−
三浦義村にとって北条義時は母方のいとこで、和田義盛は父方のいとこ!
義盛の父親が早死した為、義村の父親が本家を継ぎましたが・・・
義盛の方は自分が本家だと思っており、義村にとっては目の上のタンコブの様な存在!
武士団は親類縁者で集団的自衛権を行使していましたが、相続争いは骨肉の争い!
義盛と義村は友達では無かった様です。
ピュアな胤綱少年には理解不能でしょうが・・・
実朝暗殺の黒幕は三浦義村と言われて来ましたが、最近の研究では頼家の次男公暁の単独犯行説が有力!
父を亡くした公暁は政子の計らいで実朝の猶子となりますが、その後次期将軍に後鳥羽上皇の御子が内定!
1219年、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の式で実朝と太刀持ち役の義時を殺害!
のはずでしたが・・・
義時は式の直前に気分が悪くなり欠席 (・_・)
公暁は実朝の首を持って逃走!
乳母夫義村邸に向かいますが・・・
義村が差し向けた長尾定家等に討取られ、
雪に埋もれていた実朝の首は、刺客のメンバーだった武常春が拾い、三浦義村と犬猿の仲だった波多野忠綱の元へ向かい、そのまま秦野に亡命!
主人のやり口に嫌気がさしたのかも知れませんね (−_−)
君君たらずといえども臣臣たらざるべからず!
否!御恩あっての御奉公!
三浦の犬は主人の手を噛むらしいなぁ〜
それがなにか?(=^ェ^=)
あの理論派右翼、北畠親房も賞賛した、鎌倉武士の「ものの道理」に基づく「御成敗式目」が成立するのは、13年後の事になりますm(_ _)m