「王様は裸だ!」と叫んだ子供はどうなった?
口に出したらタダで済まないのが「公然の秘密」です。
ところで日本三大神宮とは?
「日本書紀」に記された「神宮」は伊勢と出雲と石上神宮のみ。
その後出雲は大社に移籍(出雲、日吉そして春日大社)
何故か石上神宮はただの神社に降格処分(・_・)
平安時代から明治まで伊勢、鹿島、香取だけが神宮と呼ばれます。
「竹取物語」に倉持皇子(くらもちのみこ)という極悪人が登場し、かぐや姫にプロポーズしますが、モデルは藤原不比等。
恋敵の石上麻呂足(いそのかみのまろたり)のモデルは石上麻呂で「日本書紀」編纂当時の右大臣と左大臣でした。
不比等には古くから天智天皇の御落胤説がありますが、鎌足は長男を僧侶にして次男の不比等を跡継ぎにします。
石上氏はかつての物部氏で、日本中に前方後円墳を広めた氏族です。
弥生時代末、東海から関東にかけて前方後方墳という墳丘墓が広まりますが、やがて前方後円墳勢力に併合されたようです。
それより200年昔、広島の三次盆地で発祥した四隅突出型墳丘墓は、中心を出雲に移して次第に巨大化!北陸そして福島県まで広まりますが・・・
天武天皇が大海人皇子と呼ばれたのは、伊勢湾を拠点とする海人族、大海氏に養育されたから。「天孫族」は大海氏の船に乗り、東国へ勢力を拡大したと考えられます。
香取神宮の祭神は国譲りの時活躍した経津主大神(ふつぬしのおおかみ)
物部氏の氏神ですが、ニギハヤヒは大人の事情で消されていますm(_ _)m
鹿島神宮の祭神、武甕槌大神(たけみかずちのおおかみ)は神武天皇の子孫、多氏(おおし)の氏神。
多氏は「太」「大」「意富」「飯富」「於保」とも記され、
さて、藤原鎌足ですが素性が定かではありません。
日本書紀には生まれた場所も親の名前もなく、奈良時代に書かれた大織冠伝〈鎌足伝〉には大和国高市郡藤原の生まれ、平安時代に書かれて「大鏡」には常陸の国鹿島の生まれとあります。
春日の御蓋山(みかさやま)に祀ったのは西暦710年。
そのときの太安万侶の心中や如何に?
突然ですが、徐福の別名は徐市(じょふつ)
有明海から日本に上陸し、ニギハヤヒと称したという説があります。
石上神宮のご神体が布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)で香取神宮の祭神が経津主大神(ふつぬしのおおかみ)
(・_・)エッ...
偶然でしょう(^_^;)
たぶん・・・