七里ケ浜の磯伝い〜♫
の、中央を流れる行合川( ゆきあいがわ ) ^_^

日蓮の処刑中止を伝える使者と、処刑失敗を伝える使者が行合った所!

御成敗式目第12条
争いの元である悪口はこれを禁止する。
また、裁判中に相手の悪口をいった者は直ちにその者の負けとする。

他宗の僧侶達に訴えられた日蓮は・・・「念仏、禅の僧達の首をはねよ。さもなくば、日本は滅亡するぞ!」
ところが幕府は・・・深夜こっそり日蓮を龍口刑場に移送するのでした・・・

刑場跡の龍口寺では9月12日の縁日にぼたもちが撒かれます。
スリごま、海岸の砂に似ていませんか?

日蓮が刑場に向かう途中老婆が握り飯を鍋蓋にのせ、慌てて駆け出しますが・・・つまずきころんで砂にまみれ、ごまをまぶした様になりましたが、日蓮上人は握り飯を喜んで召し上がられました・・・
そのあと奇跡が起きるというお話m(_ _)m

日蓮宗の伝承によると、雨乞い対決に敗れた極楽寺の忍性が、日蓮を陥れた事になっていますが、忍性とはいかなる僧侶か?

極楽寺が出来る前、この辺りは「地獄谷」と呼ばれ、社会からはじき出され「非人」と呼ばれた人達の暮す場所でした。

三代執権北条泰時の弟重時が深沢にあった寺を移し、1267年奈良で非人の救済活動をしてきた忍性が開祖となります。
当時は鎌倉屈指の大寺院だった様ですが、幕府滅亡時の戦乱や度重なる火災などで荒廃!
往時の大伽藍を偲ぶ遺構はありません。

忍性が薬作りに使っていたとされる石鉢。
当時ハンセン病は前世の悪業の報いと信じられていましたが、忍性は自ら患者に触れ、治療を行っていたようです。
忍性は人々から生き仏と讃えられ、師の叡尊が「慈悲に過ぎた」と苦言を呈するような人物だったそうです。

行合川の水源のひとつ金洗澤の田辺ヶ池。
境内図にも記された極楽寺の雨乞い施設で、1271年大干ばつが襲った時、幕府は忍性に雨乞いの祈祷を命じますが・・

まったく効果が現れず・・・
日蓮がお題目を唱えると瞬く間に雨が降った!日蓮宗ではそう言い伝えられているそうです。

明治末、日蓮上人像とお堂が建立され昭和32年正式に「霊光寺」となります。田辺ヶ池はすっかり「日蓮雨乞いの池」となっていますが・・・
本当なのか???

忍性は非人の労働力を使い、沢山の道路を作り橋を架け、港湾を整備し、そこから税を徴収する権利を認められていました。

稼いだお金は新たな事業に再投資され、非人達の衣食住や薬代に当てられたと考えられますが、忍性には宗教家の顔と実業家の顔があった様です。
そう言えば渋沢栄一にも実業家の顔と慈善活動家の顔があった様です。