ここは小田原の隣、二宮町の吾妻山公園 ^_^
菜の花と富士山のビューポイントですが・・・
富士山の周りだけ雲が!(^_^;)
家を出る時は雲ひとつ無かったのに!
やはり西湘はアウェーなのか (−_−)
二宮町は人口3万足らずの町ですが「100万都市」になる可能性がありました!
今から20年程前、当時の平塚市長が大磯町二宮町、相模川東岸の藤沢市茅ヶ崎市寒川町に合併話を持ちかけます。
あれ (・_・) 鎌倉市は?
平塚大礒二宮「鎌倉のヤツ、生意気だからまぜてやらないニャー」
藤沢茅ヶ崎寒川「川向こうは西湘!合併するなら鎌倉逗子葉山だニャー」
大磯「湘南発祥の地は大磯なんだニャー」
鎌倉「どーでも良いけど、鎌倉説の方が古いんだニャー」
結局住民の大多数が反対!
合併話は立ち消えとなりました (^-^;
読者の皆様にはどーでも良いお話でしょうが、歴史的には結構興味深い地域対立なのでございます。
画面中央、海越しに見えるのは石橋山古戦場!
1180年、ここで頼朝軍三百騎と大庭景親率いる三千騎が激突!
三浦軍千騎は川の氾濫で合戦に間に合わず、頼朝軍は惨敗!
こちらが当時の相模武士団の勢力図!
大庭景親率いる鎌倉党は葉山から平塚の東半分までを領有!
二宮から湯河原までは中村党の領地!
頼朝軍の主力となった土肥氏や、後に戦国大名となった小早川氏、二宮金次郎の先祖二宮氏などがそのメンバー!
1144年、頼朝の父、源義朝が子分の三浦党と中村党を引き連れ、当時伊勢神宮の御厨(みくりや)だった大庭(おおば)領で乱暴狼藉の限りを尽くします!
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大庭氏は義朝に屈服しますが、清盛が義朝を滅ぼすと平家の家人となり、逆に三浦党や中村党を圧迫するのでした。
大化の改新前、相模國は東の相武(さがむ)と西の師長(しなが)に別れていましたが、合併後相武の寒川神社が一之宮、師長の川匂(かわわ)神社が二之宮になります。
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「先代旧事本紀」という書物によると、相武国造の先祖は天照大神の次男アメノホヒ、師長国造の先祖は三男アマツヒコネ!
当時の国造は地方の豪族が、そのまま任命される事が多かったようですが、東国の国造の先祖は、この二神の場合が多い様です。
平氏や源氏が東国に下り、土着の豪族と結びついていった様に、複数の「天孫達」も各地に天下り、国造家になったのかもしれません。
吾妻山公園には、横須賀の走水で入水した弟橘媛を祀る吾妻神社があります。
相武の小野で大虐殺を行ったヤマトタケルが、横須賀の走水で三浦水軍に取り囲まれ、弟橘媛を差し出す事で三浦の親分と手打ちをしたとか?
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国境の島対馬にも「三浦」という地名があり、三浦氏の先祖は対馬からやって来たアワビの好きな海人族かも (^。^)
まだまだ続く古代妄想 (^_−☆