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湘南です55 幻の湘南市構想とは? 二宮と金次郎の関係は?

 

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ここは小田原の隣、二宮町の吾妻山公園 ^_^

菜の花と富士山のビューポイントですが・・・

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富士山の周りだけ雲が!(^_^;)

家を出る時は雲ひとつ無かったのに!

やはり西湘はアウェーなのか (−_−)

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二宮町は人口3万足らずの町ですが「100万都市」になる可能性がありました!

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今から20年程前、当時の平塚市長が大磯町二宮町相模川東岸の藤沢市茅ヶ崎市寒川町合併話を持ちかけます。

あれ (・_・) 鎌倉市は?

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平塚大礒二宮「鎌倉のヤツ、生意気だからまぜてやらないニャー」

藤沢茅ヶ崎寒川「川向こうは西湘!合併するなら鎌倉逗子葉山だニャー」

大磯「湘南発祥の地は大磯なんだニャー」

鎌倉「どーでも良いけど、鎌倉説の方が古いんだニャー」

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結局住民の大多数が反対!

合併話は立ち消えとなりました (^-^;

読者の皆様にはどーでも良いお話でしょうが、歴史的には結構興味深い地域対立なのでございます。

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画面中央、海越しに見えるのは石橋山古戦場!

1180年、ここで頼朝軍三百騎と大庭景親率いる三千騎が激突!

三浦軍千騎は川の氾濫で合戦に間に合わず、頼朝軍は惨敗!

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こちらが当時の相模武士団の勢力図!

大庭景親率いる鎌倉党は葉山から平塚の東半分までを領有!

梶原景時上杉謙信の先祖、長尾氏などがそのメンバー!

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二宮から湯河原までは中村党の領地!

頼朝軍の主力となった土肥氏や、後に戦国大名となった小早川氏二宮金次郎の先祖二宮氏などがそのメンバー!

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1144年、頼朝の父、源義朝が子分の三浦党と中村党を引き連れ、当時伊勢神宮の御厨(みくりや)だった大庭(おおば)領で乱暴狼藉の限りを尽くします!

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大庭氏は義朝に屈服しますが、清盛が義朝を滅ぼすと平家の家人となり、逆に三浦党や中村党を圧迫するのでした。

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大化の改新前、相模國は東の相武(さがむ)と西の師長(しなが)に別れていましたが、合併後相武の寒川神社が一之宮、師長の川匂(かわわ)神社が二之宮になります。

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先代旧事本紀」という書物によると、相武国造の先祖は天照大神次男アメノホヒ、師長国造の先祖は三男アマツヒコネ

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当時の国造は地方の豪族が、そのまま任命される事が多かったようですが、東国の国造の先祖は、この二神の場合が多い様です。

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平氏や源氏が東国に下り、土着の豪族と結びついていった様に、複数の「天孫達」も各地に天下り、国造家になったのかもしれません。

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吾妻山公園には、横須賀の走水で入水した弟橘媛を祀る吾妻神社があります。

弟橘媛物部氏族の正統、穂積氏の出身だそうです。

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相武の小野で大虐殺を行ったヤマトタケルが、横須賀の走水で三浦水軍に取り囲まれ、弟橘媛を差し出す事で三浦の親分と手打ちをしたとか?

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国境の島対馬にも「三浦」という地名があり、三浦氏の先祖は対馬からやって来たアワビの好きな海人族かも (^。^)

まだまだ続く古代妄想 (^_−☆