個人的には樹木葬を希望します ^_^
戒名もいりませんが・・・
医学の進歩の為、献体します!
私の遺体を自由に切り刻んで下さい!
とは、申せません (^_^;
基本、エゴイストなもので ( ◠_◠ )
ここは「当麻山無量光寺」
一遍の跡目を継いだ二祖真教が開きました。
今回のタイトルは一遍の遺言ですm(_ _)m
無量光寺の近所には細菌学の権威、北里柴三郎を学祖とする、北里大学があります。
こちらも近所にある「相模原公園」
相模原市は神奈川県で横浜市、川崎市に次いで人口の多い「政令指定都市」で、南区の中心街は相模大野!
こちらの学園歌によると、古事記の舞台「相模の小野」は、ここ「相模大野」だそうです!
しらんけど ( ̄▽ ̄)
本堂を始めとする伽藍は明治26年の大火で焼失しましたが、広大な寺域は当麻山公園となっています。
一遍は、自分が死んだら時衆を解散するよう遺言しますが、解散後すぐに再結成されます!
教団は一遍より2歳年上の弟子真教の当麻派と、一遍の腹違いの弟、聖戒の六条派に分裂するのでした・・・
一遍は一度還俗して妻子をもうけますが、領地を廻る骨肉の争いと妻と妾の確執に嫌気がさし、出家して遊行へと旅立ちます。
二人で遊行するはずだったのに・・・何で妾や娘も一緒なんだ!
「一遍上人聖絵」の原作者でもある聖戒は間もなく離脱!
最初の遊行はまるで家族旅行・・・
当時、僧侶の妻帯は珍しい事ではなく、一遍が敬慕した沙弥教信は荷物運搬の仕事をしながら妻子を養い、念仏三昧の生涯を終えつつ、家の前で野犬に遺体を食わせたそうです。
一遍が神戸を臨終の地に選んだのは、教信が兵庫県加古川の人だからといわれています。
一遍の遊行の目的は「南無阿弥陀仏」と書いたお札を配ることですが、熊野で出会った僧侶に受け取りを拒否されます。
アンタ、妻子を養う為にお札を配ってる?
お札のお礼に施しを受けていた事は確か!
一遍は一旦故郷に帰り今度は単身、九州へ旅立つのでした。
そこで出会ったのが2歳年長の他阿真教!
真教等仲間が出来た一遍は、聖戒や妻子と合流したのでは?
時衆は僧と尼が半々の男女共生集団!
それに非人や乞食が加わって、上流階級からみれば、おぞましいカルト集団だったでしょう (・_・)
室町文化の主な担い手は「阿弥」と呼ばれた被差別民!
真教は連歌の名人で体制側とのパイプもあり、時衆は真教の時衆へと、次第に変貌していったようです・・・
そして、体制に近づく分だけ大衆から離れていった気がします (−_−)
一遍の遺言も信者達の反対で実現しませんでした・・・
その理由は次回m(_ _)m
デビュー前、相模大野駅前で路上ライブをしていた、いきものがかり〜♫
男女混合のグループで、出身地もPVのロケ地も小田急線沿線!
桜の木は大道具のようですが (^_−☆