一遍は、生涯寺を持ちませんでした^^
各地で踊り念仏興行を催したのは、沢山の人に「念仏札」を配る為!
一遍の弟子、真教の戦略は違いました^^
寺を寄進してくれた大檀那(おおだんな)の元に、芸能のプロ「阿弥衆」を派遣する事で教団の勢力を拡大!
その拠点となったのが「当麻道場」でした。
なぜか?
原因は、弟子と孫弟子の跡目争い (・_・)
いろは坂の八重桜は葉桜になっていましたが・・・
宝物館周辺は花びらで覆われていました!
秋には金色の銀杏の葉で覆われます(^ ^)v
中雀門をよく見ると「菊の御紋」と「葵の御紋」が!
なぜか?
北条時宗が渋々認めた時衆も、えろーなったものです^o^
権力に近づき過ぎた為に民衆が離れてゆき、浄土真宗や日蓮宗、葬式仏教に方向転換した曹洞宗に信者を奪われてゆきますが、権力者と芸能民を引き合わせ、室町文化を主導したのが「真教の時衆」である事は確かだと思います。
老衰の為遊行を引退して当麻道場に入った真教に代わり、弟子の智得が遊行上人となり、真教が亡くなると智得が当麻山に入り、弟弟子の呑海が遊行上人に就任しますが・・・
智得も真教の後を逐うように亡くなり・・・
行き場を無くした呑海の為兄の俣野景平が寄進したのが遊行寺!
俣野氏は鎌倉党の首領大庭氏の分家で、石橋山合戦では先陣となって頼朝軍を撃破!
大庭、梶原、長尾等が相模から追い出される中、鎌倉党の意地を見せたか?
自分が死んだら時衆を解散し、屍を獣に施すよう遺言した一遍ですが、最後にこう付け加えています。
自分の遺志より在家信者の意志を優先してね!
煩悩を捨て去るとは、利他に徹する事か?
煩悩を捨て去るとは、利他に徹する事か?
献体は多分致しませんが (^_^;)