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湘南です58  捨て聖の甍 ダンナ様はサポーター?

一遍は、生涯寺を持ちませんでした^^

各地で踊り念仏興行を催したのは、沢山の人に「念仏札」を配る為!

一遍の弟子、真教の戦略は違いました^^

寺を寄進してくれた大檀那(おおだんな)の元に、芸能のプロ「阿弥衆」を派遣する事で教団の勢力を拡大!

その拠点となったのが「当麻道場」でした。

しかし、現在の時宗総本山は「当麻山無量光寺」ではなく「藤澤山清浄光寺
なぜか?
原因は、弟子と孫弟子の跡目争い (・_・)
遊行寺は通称で正式名称は清浄光寺 以下遊行寺

藤沢宿は元々遊行寺門前町 ( ^ω^ )
江ノ島弁天のある片瀬や、北部の村々と合併して「藤沢市」になりました。

いろは坂の八重桜は葉桜になっていましたが・・・

宝物館周辺は花びらで覆われていました!
秋には金色の銀杏の葉で覆われます(^ ^)v

中雀門をよく見ると「菊の御紋」「葵の御紋」が!
なぜか?
第12代遊行上人、他阿尊観法親王亀山天皇の孫 (・_・)
北条時宗が渋々認めた時衆も、えろーなったものです^o^

徳川家康の先祖、松平親氏徳阿弥と称して各地を放浪、武勇と和歌の才能を認められ、松平家の婿養子に収まります。
当時武士達は戦いの前などに「連歌の会」を催していましたが、徳阿弥は和歌の指導をする「連歌師だったと思われます。

一遍が始めた時衆は、南北朝時代には皇族をトップに頂き、江戸時代には徳川幕府サポートを受けていたのす!

権力に近づき過ぎた為に民衆が離れてゆき、浄土真宗日蓮宗、葬式仏教に方向転換した曹洞宗に信者を奪われてゆきますが、権力者と芸能民を引き合わせ、室町文化を主導したのが「真教の時衆」である事は確かだと思います。

老衰の為遊行を引退して当麻道場に入った真教に代わり、弟子の智得が遊行上人となり、真教が亡くなると智得が当麻山に入り、弟弟子の呑海が遊行上人に就任しますが・・・

智得も真教の後を逐うように亡くなり・・・
執権北条高時が介入して智得の弟子真光を法主に!
行き場を無くした呑海の為兄の俣野景平が寄進したのが遊行寺

俣野氏は鎌倉党の首領大庭氏の分家で、石橋山合戦では先陣となって頼朝軍を撃破!
大庭、梶原、長尾等が相模から追い出される中、鎌倉党の意地を見せたか?

北条から足利の世になると、遊行派は当麻派を凌ぐ様になりますが、北条早雲と敵対した為、寺を焼かれ94年間、相模から遊行寺は消えるのでした (−_−)

北条氏が滅び徳川幕府が出来ると遊行寺は復活!
遊行寺時宗総本山となるのでした (^_^)v

自分が死んだら時衆を解散し、屍を獣に施すよう遺言した一遍ですが、最後にこう付け加えています。
 
自分の遺志より在家信者の意志を優先してね!

煩悩を捨て去るとは、利他に徹する事か?

献体は多分致しませんが (^_^;)