今回は、故郷茅ヶ崎から (^_−☆
「鎌倉殿の13人」も、まもなく折り返し点!
来月から、いよいよ13人が本格始動 ^_^
源頼朝も今月末でお役目終了m(_ _)m
鎌倉殿として最後の務めを果たす為、
ここ茅ヶ崎にやって来るのでした!
もちろん、馬に乗って ( ̄▽ ̄)
なーまんの実家は駅の南東側 (*^-^)
ここを訪れるのは、小学校の遠足以来か?
史跡・天然記念物「旧相模川橋脚」
なにそれ?
関東大震災の後水田に忽然と橋杭が出現 (・_・)
建久9(1198)年に源頼朝の重臣、稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、大正15(1926)年に国の史跡に指定されました。
稲毛重成の亡き妻は、北条政子や義時の妹!
落成式は鎌倉殿臨席のもと、
盛大に執り行われました。
頼朝は名物でかまんを喉に詰まらせ悶絶(嘘)
ドラマでは餅を喉に詰まらせ悶絶(脚本)
危うく窒息死 (^_^;)
三谷と大泉だから成立する演出か?
北条ファミリーはそのまま宴会!
頼朝は一足先に鎌倉に帰ることになります。
ところが・・・
鶴嶺八幡宮を通過するその時!
頼朝の目の前に義経等の亡霊が現れ、乗っていた馬が棒立ちになり頼朝は落馬して翌月死亡!
それが「弁慶塚」の由来ですがなぜ「義経塚」でないの?
弁慶が主役の「義経記」や「勧進帳」の影響か?
鎌倉幕府の公文書「吾妻鏡」にこの事件が記されるのは13年後!
落成式の帰り道に頼朝が落馬!
まもなく亡くなったので、縁起が悪いと放置されていた橋が壊れ、地元民が困っていると将軍実朝の元に陳情が届き、橋を架け替えたのだそうです。
義経亡霊説が初登場するのは、南北朝時代の歴史書、保暦間記(ほうりゃくかんき)ですが、場所は5キロ離れたJR辻堂駅前 (・_・)エッ
郷土史研究家は自信満々ですが、その自信はどこから来るの?
別の伝承では、落成式で頼朝が橋を渡る時突然馬が暴れだし、頼朝もろとも川に落ちたので、相模川河口付近を「馬入川」と呼ぶ様になった!
と、いうのもあります。
これは関東大震災頃の地形で、この橋が相模川本流のものかも定かではありませんが、出土した橋脚は鎌倉時代の木材で、落成式の約二週間後に頼朝が亡くなった事は、都の貴族達の日記も記録しています。
鎌倉幕府の公式な歴史書吾妻鏡には「空白の三年間」があり、頼朝の死因は鎌倉時代最大のミステリー?
ドラマは北条義時が主役で、父時政は気の良いオヤジですが?
当時の茅ヶ崎の領主、大庭景能(おおばかげよし)
この方は真相をご存知だった?
景能は強弓で知られた源為朝の放った矢を膝にあびて歩行困難になり、若くして隠居生活を送っていましたが、処刑された弟景親に代わり大庭一族の当主に!
頼朝の相談役として82歳の天寿を全うしました。
しかしその後、大庭一族は相模を追われ、三浦義村が茅ヶ崎の領主に!
その後北条氏が領主となり、北条が滅ぶと三浦、三浦を滅ぼし後北条氏が領主に!
そして・・・
江戸時代茅ヶ崎は大岡家の領地に (^_^)
奉行といえば、大岡越前!
モナカといえば、奉行最中?
遠山の金さんもいますね ^^;