源実朝といえば?
北条義時の操り人形?
後鳥羽上皇に遠隔操作されていた?
そんなイメージがありましたが・・・
実朝は名君で、御家人達からも慕われていた?
実朝のビジョンは北条泰時等に引き継がれ、実行されていった!
そんなお話をしたいと思います(^_^)
和賀江島(わかえじま/わかえのしま)は日宋貿易の為に築かれた人工島!
1232年三代執権北条泰時の時代に築かれた港湾遺跡です。
かつてここに、宋から来た唐船が何艘も停泊していました。
人工島は大きな根石の上に丸石を積み上げて築かれました。
度重なる震災や老朽化で、石がゴロゴロした河原のように見えますが、干潮時には先端まで歩いて行けます。
和賀江島は鎌倉時代の半ば以降、忍性の極楽寺によって管理され、徴収された港湾使用料は、貧民救済等の福祉政策の費用に充てられていました。
na-mannoeyelevel.hatenablog.com
極楽寺を建てたのは泰時の弟重時ですが・・・
「非人」と呼ばれた人々の救済に最初に乗り出したのは実朝!
「非人施行」はその後、母政子に引き継がれ、重時が引き継いで行きます。
実朝は多くの屍の上に築かれた幕府の主として、深い罪悪感に苛まれていた様です。
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/677/677PDF/yamamoto.pdf
どちらも「利他行」と密接に関係しているそうです。
全51条という数は17の3倍で、聖徳太子の憲法17条に由来するという説があります。知らんけど( ◠‿◠ )
欠点だらけのボク達だけど、知恵を出し合い補い合って行きましょう!
という発想は、聖人君子の「徳治」とは明らかに異なりますね。
実朝は平家が燃やした東大寺の再建に尽力した宋の工人、陳和卿の協力を得て全長30Mの巨大唐船を建造!
北条義時や大江広元の反対を押し切って、自ら宋に渡ろうとします(・_・)
唐船は由比ケ浜の真ん中にあった「由比の浦」というラグーンで進水式を行いますが・・・
巨大船を浮かべるには水深が浅すぎて、唐船は座礁 (//∇//)
結果論になりますが・・・
船を造る前に港を造るべきでした!
貿易が目的なら実朝が海を渡る必要はないし、行くべきではない・・・
結局実朝は・・・
宋に行ってみたかったのでは?
ここ逗子マリーナは和賀江島のすぐ隣!
唐船浮かべるならここでした!
残念 (>_<)
実朝は巨大な船だけでなく、小舟の漁師にも眼差しを向けています。
信仰に裏打ちされた、強い意志を持った人物だったと思います。
頼朝が亡くなった時、出家した御家人は数名でしたが、実朝が亡くなった時は八十名近い御家人が出家したそうです。
実朝は優れた芸術家であり宗教家でしたが、政治家としては余りにもピュアすぎた・・・
泰時は父義時だけでなく、実朝からも多くを学んでいたと思います。