なーまんのEye-Level

写真とつぶやきの貯蔵庫

鎌倉百八景61  源実朝は名君だったのか?

源実朝といえば?

北条義時の操り人形?

後鳥羽上皇に遠隔操作されていた?

 

そんなイメージがありましたが・・・

実朝は名君で、御家人達からも慕われていた?

実朝のビジョンは北条泰時に引き継がれ、実行されていった!

 

そんなお話をしたいと思います(^_^)

和賀江島(わかえじま/わかえのしま日宋貿易の為に築かれた人工島!

1232年三代執権北条泰時の時代に築かれた港湾遺跡です。

かつてここに、宋から来た唐船が何艘も停泊していました。

人工島は大きな根石の上に丸石を積み上げて築かれました。

度重なる震災や老朽化で、石がゴロゴロした河原のように見えますが、干潮時には先端まで歩いて行けます。

和賀江島鎌倉時代の半ば以降、忍性の極楽寺によって管理され、徴収された港湾使用料は、貧民救済等の福祉政策の費用に充てられていました。

 

na-mannoeyelevel.hatenablog.com

極楽寺を建てたのは泰時の弟重時ですが・・・

「非人」と呼ばれた人々の救済に最初に乗り出したのは実朝!

「非人施行」はその後、母政子に引き継がれ、重時が引き継いで行きます。

 

実朝は多くの屍の上に築かれた幕府の主として、深い罪悪感に苛まれていた様です。

https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/677/677PDF/yamamoto.pdf

 

実朝が信仰していたのは文殊菩薩聖徳太子

どちらも「利他行」と密接に関係しているそうです。

 

北条泰時といえば御成敗式目ですが・・・

 

全51条という数は17の3倍で聖徳太子憲法17条に由来するという説があります。知らんけど( )

 

欠点だらけのボク達だけど、知恵を出し合い補い合って行きましょう!

という発想は、聖人君子の「徳治」とは明らかに異なりますね。

 

実朝は平家が燃やした東大寺の再建に尽力した宋の工人、陳和卿の協力を得て全長30Mの巨大唐船を建造!

ja.wikipedia.org

北条義時大江広元の反対を押し切って、自ら宋に渡ろうとします(_)

bunka.nii.ac.jp

唐船は由比ケ浜の真ん中にあった「由比の浦」というラグーン進水式を行いますが・・・

 

巨大船を浮かべるには水深が浅すぎて、唐船は座礁 (//∇//)

結果論になりますが・・・

船を造る前に港を造るべきでした!

貿易が目的なら実朝が海を渡る必要はないし、行くべきではない・・・

結局実朝は・・・

宋に行ってみたかったのでは?

 

ここ逗子マリーナは和賀江島のすぐ隣!

唐船浮かべるならここでした

 

残念 (>_<)

 

小倉百人一首』の選者藤原定家に太鼓判を押された作品!

実朝は巨大な船だけでなく、小舟の漁師にも眼差しを向けています。

 

信仰に裏打ちされた、強い意志を持った人物だったと思います。

頼朝が亡くなった時、出家した御家人は数名でしたが、実朝が亡くなった時は八十名近い御家人が出家したそうです。

 

実朝は優れた芸術家であり宗教家でしたが、政治家としては余りにもピュアすぎた・・・

 

泰時は父義時だけでなく、実朝からも多くを学んでいたと思います。