鎌倉の紅葉をご覧頂きながら「実朝暗殺と承久の乱」を3週に渡り、勝手につぶやくという企画ですm(^^)m
鎌倉なのに気分は京都〜♪
ここは「一条恵観山荘」
旧華頂宮邸(きゅうかちょうのみやてい)は昭和4年に建てられた「宮様」の別邸!
今回は雅な紅葉をご覧頂きながら「実朝暗殺」という血生臭いお話をさせて頂きますm(_ _)m
京へ行きたしと思えど 都はあまりに遠し・・・
そうだ!京都に行こう!(大御所になって)
ついでに幕府もお引越し~♪
ドラマでは、それを聞いた北条義時が「愛想が尽きた!」と吐き捨てますが、暗殺の黒幕とは描かれていません。傍観しただけ (//∇//)
古くから義時黒幕説、義村黒幕説などがありましたが、最近の主流は公暁単独犯行説!
「鎌倉殿の13人」の時代考証担当の坂井孝一氏も単独犯行説!
面白くないと食べていけないのが歴史作家で、突飛な説を唱えると仲間ハズレにされるのが歴史学者?
ただ、公胤(こういん)の弟子、公暁をずっと「くぎょう」と読んでいたわけで、定説が正しいとは限りません。
二代目鎌倉殿、源頼家には息子が4人もいました!
公暁の乳母夫は三浦義村で、公暁の弟禅暁の母親は、義村の弟三浦胤義と再婚していました!
公暁様や禅暁様こそ真の鎌倉殿!
それが三浦一族の本心でしょう。
坂井氏は三浦が北条を滅ぼしたいなら、和田義盛の味方をした筈と仰っていますが、和田一族が擁立したのは公暁と禅暁の兄弟、栄実!
まず義盛を葬り去り、自らの地位を高めた上で公暁を・・・
実朝暗殺には公暁の他、八幡宮寺の僧4人が加勢していましたが・・・
「鶴岡八幡宮寺供僧次第」という古文書には事件の直後、良祐、顕信、良弁、猷弁という4人の僧が追放処分になったと記録されているそうです!
実朝を殺害したのは公暁で、太刀持ちをしていた源仲章を殺害したのは4人の僧か?
だとしたら・・・
何故、追放処分だけで済んだのか?
太刀持ち役は当初、義時でしたが「吾妻鏡」では急に気分が悪くなり「愚管抄」では実朝の命令で、源仲章に交代!
最近の学者は「愚管抄」を重視する様ですが・・・
実は「4代目鎌倉殿」藤原頼経は「愚管抄」の作者、慈円の兄のひ孫!
「実朝暗殺と承久の乱」で一番得をしたのは?
北条氏と藤原氏では?
事件の後、三浦胤義は兄義村と袂を分かち、承久の乱ではもう一人の「九郎判官」として幕府軍と戦います。
義村が公暁にさしむけた刺客の一人、武常晴は実朝の首を持って秦野に出奔!
na-mannoeyelevel.hatenablog.com
その後一族揃って移住し、子孫は今も秦野にお住まいです。
鎌倉方はもちろん、京方も一枚岩ではなかったのでは?
つづく