お米が無いとダメですか?
なーまんは・・・
朝はパン、昼は麺類、夜は液体燃料!
お米を食べなくても大丈夫(^.^)v
秦野の名産品といえば落花生 d(^_^o)
火山灰土壌の秦野盆地は水捌けが良過ぎて稲作には不向き!
弥生時代の遺跡もほとんどありません!
盆地の中央を流れる水無川は、雨が少ない冬になると本当に水が無くなります!
あちこちから美味しい湧水が溢れ出る為、縄文遺跡は豊富ですが・・・
前方後円墳も皆無(・_・)エッ
盆地の外、平塚市の金目川流域は古代から米所で、4世紀に築かれた「前方後方墳」塚越古墳が存在します!
www.city.hiratsuka.kanagawa.jp
「前方後方墳」は東国発祥の古墳で、5世紀には造られなくなりますが、何故か出雲ではずっと造られ続けます!
6世紀になると、千葉県南部などでも復活!
東国と出雲には親和性がある様です^^
ところが・・・
6世紀末、渡来人が盆地内に入植!
横穴式石室を伴う群集墳を築きます(^.^)v
秦野市によると・・・
秦野の地名由来は諸説あるそうです。
秦野には富士吉田や富岡の様な養蚕・機織りの伝統はなく、渡来人と言っても多系統存在するのかも?
盆地の中央に桜土手古墳群を築いた渡来人は、大磯から金目川を遡り、盆地の入り口付近にまず、横穴式石室を伴う前方後円墳と、多数の横穴墓を築きます。
興味深いのは、継体天皇の即位に合わせて蘇我氏が歴史の表舞台に登場!
物部連が滅ぶと前方後円墳は急速に廃れ・・・
横穴墓と群集墳が日本海側と東国に、急速に広がってゆくのでした!
※ 興味のある方はPDFをご覧下さい。
https://www.pref.kanagawa.jp/documents/8040/914056.pdf
※ 千葉県北部では7世紀に入っても前方後円墳が造られますが、これは物部連の残党が移住したから?南部で前方後方墳を復活させたのは、反物部の在地勢力か?
物部VS蘇我の構図は古墳にも表れている様です。
須恵器は物部の拠点、布留遺跡からも出土していますが、横穴墓と群集墓の全国展開は、蘇我氏全盛の時代から始まったと言えると思います。
崖の斜面に横穴を掘った墓を「横穴墓」石を組んで石室を造り、土を盛った墓を「高塚古墳」と言いますが、副葬品に大きな違いはなく、一戸建住宅とマンションの違いに似ている?
米の取れない秦野盆地で、渡来人達は何を糧に?
答えは牧畜と畑作!
欧米か (^。^)
田作らず、布おらず 中略 山野に遊ぶ。 中略 人のたぐいにあらず。
これは弘法大師空海様のお言葉ですが、秦野の渡来人達は牛の乳を搾り、長時間鍋で熱しながら、休む事なく掻き回し「蘇」を作り、米の代わりに納めていた様です。
質が悪かったり納期が遅れると、杖刑(杖で打ちすえる刑)に処されたそうですが、武士の世の中になると蘇だけでなく、何故か酪農そのものが廃れていった様です。
そして・・・
牛頭天王の信仰が広まりますʕʘ‿ʘʔ
次回も東国の渡来人について考えたいと思いますd(^_^o)