政子が悪女認定されるのは江戸時代 d(^_^o)
頼朝の血筋が絶えたのは嫉妬深い政子のせい!
それが当時の儒学者達の「見識」でした (・_・)
儒教に於いて男系子孫の断絶は不孝の極み!
女子は子孫の頭数に入っていません (・_・)
江戸時代には女大学何てモノもありました。
嫉妬深い妻は離縁 (*`∧´)/
だってさ ( ̄∇ ̄)
頼朝の愛人宅を襲撃させた政子!
しかし、京には妻が妾を制裁する後妻打ち(うわなりうち)という習慣があった様です。
藤原道長の五男、教通の乳母が30人の下女を従え夫の愛人宅を襲撃!
それでも離縁や処罰された形跡はありません (^_^;)
今回の大河の印象深いフレーズは婿入り(^.^)
藤原道長は源倫子の家に婿入りしますが、倫子の様な家付き娘を嫡女といい嫡妻といいました。
婿の衣食住の世話は婿入り先がします!
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頼朝も北条の家に婿入りしたので政子も嫡妻ですが、源倫子は村上天皇のひ孫、政子は伊豆の弱小豪族の娘(^^;;
当時の嫡男は母親の家柄で決まるのです d(^_^o)
亀の前事件は嫉妬に狂った政子一人の指示?
頼朝の男系子孫を根絶やしにしたのは誰?
他氏族が外戚になる事を恐れた北条氏では?
政子はむしろ殺されないよう庇っていた?
「女性が決定権を有する日本国」という意味でしょうか?
これ、皮肉に聞こえますか?
一次史料とは当事者がその時代に記した史料の事。
二次史料は後世の第三者が自分の解釈を加えて記した史料。
憶測や勘違いが含まれる危険性が高いのが二次史料。
一次史料から見て公暁はコウギョウと呼ばれていた可能性が高いのに、教科書にクギョウと書いてあったのは、江戸時代の学者の憶測を鵜呑みにしたから!
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元寇は神風のおかげでかろうじて勝った?
教科書にそう書いてあったのは、戦場から遠く離れた場所で加持祈祷に明け暮れていた、石清水八幡宮の僧侶が書いた「八幡愚童訓」の記述を鵜呑みにしたから(・_・)エッ
歴史史料の価値を吟味することを史料批判と言いますが、昔の学者は儒教精神が強すぎて、先人の業績を否定出来なかったのでは?
吾妻鏡には藤原頼経が13歳の時「竹御所」に婿入したと書いてあります。
1234年源媄子は32歳で懐妊(^_^)
叔父北条時房の家で男子を出産しますが死産!
源媄子もその日の朝に死亡します (//∇//)
藤原定家の「明月記」によると、源媄子の訃報に鎌倉武士達が激しく動揺し、こぞって鎌倉に下ったとあります。
源媄子は武家の棟梁の血脈を受け継ぐ嫡女で、儒教に染まる以前の日本では女性のカリスマ性が、かなり重要だったのではないかと思います。